知性化的京都 _ その参


 不意な心の変化から訪れた京都に、私はその後、幾度となく訪ねた。
その模様の一端は、本項として私的なWEB上に3項目に纏めてある。

  (*往来眺眼装置〜散策装置
     _ ●貴船神社から鞍馬まで ●京都・雨模様 ●何故かいつもの空模様 _として*)


その3回だけではなく、合間にも何度か訪れているのだが、
敢えて纏めるほどの物事が無かったのだろう。


 写真を撮ると云うのは、必ずしも行動に比例して上手く表現される訳ではなかったし、
そこに何かしら感じただろう思いが、連動して常に現れるとは言えなかった。


MP_Kyoto_2012_008


なんとなく撮った写真が、なんとなく説明的に写っているのは当然だ。
恐らくその写真を見た人は、こう感想を述べるだろう。

「これ、何処で撮ったの?」

そして答える。

「京都の○○」

その冠が付いた瞬間、
大抵の人が無意識な内に雅やかなイメージを抱くだろう。



MP_Kyoto_2012_007


その感想の後に、自分の望む言葉は続いたろうか?
もしかしたら、それは「そこに写されているもの」への感想だけかも知れない。

....自分の感性や想いなどと云うものは伝わったのだろうか?

写真の評価が難しいのは、写っているものに大きく引っ張られてしまう事だ。

 もちろん、それを撮ろうと思った心が間違っているのではないし、
それを撮りたいと感じた事はとても重要だ。
でも、綺麗なショーウィンドウを撮ったら、素敵で綺麗な写真には見えても、
それはそのショーウィンドウを飾った人のモノでしかないのだから。


MP_Kyoto_2012_022


 カメラが多くの部分をこなす様になって、撮る事への難易度はかなり下がっている。
それでも、光は何処に導かれているのか? 色はどう写し出されるのか?
それは考えなければいけないし、
「何をどう切り取るのか?」
その一番大事な部分だけは、写す時に考える一番重要なことだ。

その場で確認できるデジタルカメラでさえ、なかなか思う様にならないのに、
銀塩フィルムで撮っている時は、尚更ままならない事だった。




MP_Kyoto_2012_028


「京都の」
と冠が付くと、それだけで評価が上がってしまう様な被写体が沢山ある。
そしてそれを撮る人々も沢山いる。

妙に構えた理屈なんて必要なくなるのが一番良いけれど、それが難しい。
そのハードルの手前で楽しむだけでも全く構わないけれど、
敢えて向き合っていこうとするのも、写真を撮るという以上は大事だろうと私は思う。

なかなか高いハードルだ。


 辿り着いた私の好きなお寺で、肩の力を抜くべくひと休み。
上3枚を撮ったフィルムカメラを被写体に置いて、なんとなく撮ってみた。

「.....京都の南禅寺の門だよ」
そう答えるばかり。


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