知性化的京都 _ その参
不意な心の変化から訪れた京都に、私はその後、幾度となく訪ねた。
その模様の一端は、本項として私的なWEB上に3項目に纏めてある。
(*往来眺眼装置〜散策装置
_ ●貴船神社から鞍馬まで ●京都・雨模様 ●何故かいつもの空模様 _として*)
その3回だけではなく、合間にも何度か訪れているのだが、
敢えて纏めるほどの物事が無かったのだろう。
写真を撮ると云うのは、必ずしも行動に比例して上手く表現される訳ではなかったし、
そこに何かしら感じただろう思いが、連動して常に現れるとは言えなかった。

なんとなく撮った写真が、なんとなく説明的に写っているのは当然だ。
恐らくその写真を見た人は、こう感想を述べるだろう。
「これ、何処で撮ったの?」
そして答える。
「京都の○○」
その冠が付いた瞬間、
大抵の人が無意識な内に雅やかなイメージを抱くだろう。

その感想の後に、自分の望む言葉は続いたろうか?
もしかしたら、それは「そこに写されているもの」への感想だけかも知れない。
....自分の感性や想いなどと云うものは伝わったのだろうか?
写真の評価が難しいのは、写っているものに大きく引っ張られてしまう事だ。
もちろん、それを撮ろうと思った心が間違っているのではないし、
それを撮りたいと感じた事はとても重要だ。
でも、綺麗なショーウィンドウを撮ったら、素敵で綺麗な写真には見えても、
それはそのショーウィンドウを飾った人のモノでしかないのだから。

カメラが多くの部分をこなす様になって、撮る事への難易度はかなり下がっている。
それでも、光は何処に導かれているのか? 色はどう写し出されるのか?
それは考えなければいけないし、
「何をどう切り取るのか?」
その一番大事な部分だけは、写す時に考える一番重要なことだ。
その場で確認できるデジタルカメラでさえ、なかなか思う様にならないのに、
銀塩フィルムで撮っている時は、尚更ままならない事だった。

「京都の」
と冠が付くと、それだけで評価が上がってしまう様な被写体が沢山ある。
そしてそれを撮る人々も沢山いる。
妙に構えた理屈なんて必要なくなるのが一番良いけれど、それが難しい。
そのハードルの手前で楽しむだけでも全く構わないけれど、
敢えて向き合っていこうとするのも、写真を撮るという以上は大事だろうと私は思う。
なかなか高いハードルだ。
辿り着いた私の好きなお寺で、肩の力を抜くべくひと休み。
上3枚を撮ったフィルムカメラを被写体に置いて、なんとなく撮ってみた。
「.....京都の南禅寺の門だよ」
そう答えるばかり。
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